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イラスト:鈴木ハルナ


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PostHeaderIcon 相談員コラム… 連ドラ「ひよっこ」を見て、他人との暮らしを考える ②


 前回のつづきなのだが、もう「ひよっこ」はとうの昔に終わってしまい「なんだっけ?」といわれそうだ。でも、めげずに書きますのでお付き合いを。前回は「他人と暮らしたことがあれば、その経験が生かせる機会は、人生に2度ある。ひとつは結婚(別に勧めてるわけではありませんが)で、もうひとつは老後だ。」という話だった。

 生まれた家で育ち、成人して家を出て一人で暮らすか、職場に通える距離ならそのまま実家暮らし。ずっと独身でも、配偶者や子供ができて家族を持つ場合もあれば、又は離婚してシングル親になることもある。つまり一人暮らしもしくは家族との生活という2つしか選択肢がない。みんなそれが当たり前だと思っているが、家族ってよく考えると実に不思議な存在だ。
 

 数年前に当コラムで「シェアハウス考」というシリーズを書いた。その時も紹介したが、私は就職したばかりの頃、友人と4年ほどシェアハウスした経験がある。安月給の苦肉の作戦だったが、意外に快適で面白かったし、その後のいま家族(事実婚の夫と息子)との暮らしに大いに役立ったと思う。

 何が良かったかといえば、それは生活の現場で「ニュートラルな人間関係」が経験できたことだ。家族のことしか知らなければわからないことだったが、他人と生活を共にするというのには「してもらって当たり前」が存在しない。

 他人との暮らしでは、一方的な支配、抑圧、隷属、搾取、依存という力関係は成り立たない。嫌ならやめればいいだけなので、関係はフラットで、家計だって折半、家事分担だって半々が当たり前だ。その上で、関係が良くなるちょっとした気遣いをお互いにする。風邪を引いたときにお粥を作ってくれたら本当にありがたいし、忙しくて掃除ができないとき「ついでに掃除機かけといたよ」と言われるとちょっとうれしい。

 一方、家族というのは良くも悪くも「役割」で成り立っている。父や母、娘や息子、祖父母や孫もいるかもしれない。そうした血族や姻族で成り立つ家族と他人の違いは「無償」が可か不可かである。

 全ての人間が最初から自立、自活しているわけではない。誰だって子供だったし、いつか人の支えが必要になる高齢者になる。子供だったり高齢者であったり、病気や障害で働けなかったり、困りごとを抱えたり、そうした人には支える人が必要だ。それを家族が担うのが「家族間の扶養義務」だ。別に法律の義務はなくても、家族の誰かが困っていればよほどのことがなければ助ける。最小単位でかつ最強の究極のセーフティーネットである。

 ただ、一方で無償の行為というのは美化されがちだが、「支配や抑圧」「甘えや依存」の温床でもある。役割にあぐらをかいて「当たり前」がくっつくと最悪だ。父親なら稼いでくるのが当たり前。母親なら家事や育児、介護して当たり前。子供が親を大切にするのは当たり前。子供は親のいうことを聞くのも当たり前。こうなると家庭生活は家族の誰かの犠牲の上になりたち、我慢を強いることになる。

 そうした家族の危うさに気づかせてくれるのが「他人と生活した経験」なのだ。フラット=水平な関係の暮らし方の経験があれば、不公平がわかりやすい。してもらって当たり前のない生活では、他人に何かしてもらえば自然に「ありがとう」がでる。家族でいちいち「ありがとう」は他人行儀だといわれるが、「ありがとう」すらいえない関係の方が変なのだ。

 特に結婚(法律婚でも事実婚でも)しようとするとき、お互いの無償行為を前提にしないほうがいい。もちろん扶養義務はお互いにあるのだが、それは仕方ない状況(病めるとき、貧しきとき)のためのもので、富めるときすこやかなるときは、一人前の大人同士ならできるだけ稼ぐのも家事分担も同じがいい。

 「逃げ恥」というドラマが話題になった。最近「逃げ恥にみる結婚の経済学」という本まで出ているが、この中で主人公のみくりが「無償の家事労働」を「好きの搾取」と言っていた。うまい言い方だ。

 結婚当初は「好き」がマックスで舞い上がっているが「無償の愛だろ」と女性に家事労働や育児を押しつけたり、「好きなら出して当然」と男性に金銭を要求するのはやっぱり違うと思う。恋愛感情はおいといて、ぜひ友達とのシェア生活のようにフラットな関係の結婚をはじめて欲しいと思う。そして、子供や持ち家、親の介護、自分たちの老後など共通の、これから先の課題が見えたとき役割分担も含め、少しずつ乗り切る算段をすればいい。

 さて老後、とくに何かと支えが必要になる頃に壁としてたちはだかるのが「他人との関係」だ。家族との暮らしや一人暮らしが長いと、見ず知らずのヘルパーさんを家にいれるのを嫌がることが多い。私の母もそうだったが、他人が自分の生活の場にいるという経験がないので最初は「考えたくもない」といって怒った。

 もちろん恥ずかしいという気持ちもあるだろうが、家族がやればタダで、いちいち「ありがとう」も言わないですむし、わがままも言えると考えたようだ。でも、兄も私も同居は無理。仕方なくヘルパーさんを受け入れたが最後まで文句ばかり言っていた。

 ましてまわりは他人だらけの施設介護ならなおさら拒絶感は強い。往々にして年寄りは自己中になりがちで、今の生活を1ミリも変えたくないというほど変化を嫌う。でも、家事や介護を無償でやり「ありがとう」も言われないでわがままを言われる家族はたまったものではない。年寄りが他人の手をスムーズに受け入れてくれると介護する側が大助かりだ。

 家族以外の他人と暮らしたことがあれば、その抵抗感も少しは和らぐのではないかと思う。来る者拒まず、去る者追わずの他人と暮らしは、経験則として他人との距離感を学ぶ。他人とむやみにべたべたする事もないし、一から十まで警戒する必要もない。家族以外は信用できないという偏狭な考えにとらわれることもないので、家族に過重な負担をかけることのない。何より若い頃の下宿や寮、シェアハウスと同様に、その中で気の合う人と出会えれば老後は絶対楽しくなる。

 私の母は認知症が進んで父と老人ホームに入った。だんだん他人に関する警戒心が解けたのかホームの人達になじみ、晩年はよく女学校の寄宿舎の話をしていた。それまではそんな話あまり聞いたことがなかったが、老人ホーム生活が楽しかった娘時代の寄宿舎暮らしを思い出させたのかもしれない。その時の表情はとても穏やかだった。母に楽しい他人との暮らしの思い出があって本当に良かった。

 

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